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古の「すとらてじっく・いんふぉめ~しょん・しすてむ」君


IT産業には少し遅れて波及してくる・・・・スマートシティ、スマートグリッド、etc。
って何だかさっぱりわかんないけど、つまりざっくりと昨今賑やかなエネルギー関連繋がりで。

そもそもITって表現が「それって説明省いてるよね」って感じがずっとしていてね。
所謂大手のSIerから、自らHW一式を供給するITベンダーまで様々だけどまぁともかく。
一方でWebサイト(サーバ)を基軸に金融を絡ませ膨らませてくのだってITって言うしね。
所管省庁によってITとICTは言い分けられてたはずだけど、とりあえず置いとくとして。
例えばNTTやKDDIみたいな通信事業者ですら見方を少しぼかせばITってことなんだろうし。
うーん・・・・IT。IT。IT。

話戻ってエネルギー関連。昨今やおら賑やかな例えば再生可能エネルギー。
太陽光でも風力でもいいけど、とにかくこの段階では発電と蓄電。余剰があれば売れるよ、と。
これらはもう少し大きなフレームとしてのスマートグリッド(EVとかも含めもっと裾野の広い)の中の一部ってことかね。
そして更にそのエネルギー需供給のフレームや技術を核に、でもけしてそこに留まらないもっと広範な?
それこそ社会的変化まで期待されている(のか?)スマートシティ。
それは例えば、経済はもとより、雇用、福祉、教育、地域、公共の在り方、人と人との繋がり方まで・・・
様々広がると想像されるところの概念。サステナブルで循環型だからきっと未来は低炭素で輝かしのだ。(と思おう)
まぁ何でもいいです。

これらのことをウェブでも雑誌かでもちょっと読みかじれば、
デマンドレスポンスやらCEMSやらBEMSやらFEMS・HEMS・・・出てくる出てくる。
なんだなんだ何なんだ、このアルファベットの羅列どもは!ってくらい略語やカタカナが登場します。
そしてこれらを並べたその先にまさしくITの真髄?がある。まさにITのなせるマジック(?)だよね。
既存の情報処理技術、もしくは通信技術を切り貼りしてちょっと新しい蓋を被せる。
そしたらそこに新しい「言葉(略称やカタカナ語)」を貼り付けて、明日から世界はガラッと変わっちゃうぞ!
くらいの宣伝をしちゃう・・・というのがITの胡散臭さでありITの素晴らしさ、この産業の魅力なんだよね。

だから、まずはICTが「やれスマートメーターだ」「やれCEMSだ」なんだかんだと言って賑わうためには
何よりそれに先んじてICTにとっての「繋げる対象」と「処理する対象」が必要になるのだね。
(スマホンとアプリとその接続先サーバと、そしてそれらの間を縦横無尽に行き交うパケット達と同じね)
だから再生可能エネルギーなるフィールドの中でたくさんの太陽光パネルやパワコンや充電池や、
そしてそれらを備えた各家庭やビルなんかと繋げたがる(制御したがる、覗き見したがる)電力事業者。
更にそれに紐づく様々な裾野産業がとにもかくにも盛り上がってくれないとことには困る、だから
IT産業には少し遅れて波及してくる・・・・スマートシティ、スマートグリッド、etc。
・・・の恩恵が。ってことか。

古い話だけど手動が大学生だった時分に「SIS」なる3文字アルファベットの走りみたいなのが流行ってね、
それは”戦略的情報システム”だなんて、何だかわかったようなわからんような
とにかくそんなフレーズなんだけど、実はつまりは今も大きくは変わってないな。って思うよ。
インフラがInternetという広大なものに置き換わったことはあまりに大き過ぎるインパクトだけど
でも、求められてるコンセプト
・・・ほぼリアルタイムに繋がれることの恩恵を誰がどこの立場でどう活かすのか・・・
ってところは何も変わってないなって。
などと、素人なりにそんなことをちょっと思ったよってだけです。悪しからず。

[ヒュンダイ・トーナメント]
ダスティン・ジョンソンが開幕勝利!いやー、この人54H施行大会では俄然強いよね。
去年のザ・バークレイズは記憶に新しいけど、それ以前にもAT&Tペブルビーチナショナルプロアマ(2009?)
でも勝ってるそうだから、これでなんと3勝目!?
短縮王ダスティンです。素晴らしい。

そう言えばババ・・・・あれれ?そのポロシャツ、胸部真ん中にあの(マキロイで見慣れた)[O]のロゴがある。
ってわけで今年からウェア契約をオークリーにしたのですね。ババ・ワトソン。
と思ったらザック・ジョンソンまでもOAKLEYになったらしいっす。
ううむ・・・移ろいゆく契約ウェアたち。

そしてオークリーと言えばマキロイだけど・・・・NIKEと契約したことでウェアも変るのかな?
と思ったら、あらあらあら。オークリーに提訴されてるんだね。マキロイ(とNIKEも?)って。

そしてそしてそのNIKE。
タイガーという金看板に加え、今年からマキロイも契約。NIKEユーザの手動としてはちょっと嬉しいかも。
(でもできればウェアはオークリーのままでいてほしかったかな、と思わなくもない)
にしても、10年で170億円とも噂されるマキロイの契約金!?半端でないね。
うへへへ(間違って1億円くらいくれないかねー)

そして×3!!石川遼がCallawayとの正式契約を発表したみたいですね。
どことの契約でもいいや。とにかくとにかく頑張ってほしいっす。

まったく関係ないけど、何れ機会があれば「ソウル・サバイバー・ポリシー」について考えようかな、
なんて思っとります。はい。

 

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あなたの町でも・・・りたーんず


一昨年お手伝いした市民討議会。
どこかで書いたけど今年も微力ながらもお手伝い。(ほとんど役にたってないけどね)

一昨年のそれはとても印象深いイベント(?)だったし、色々と考えさせてくれる私にとってのいい経験でしたが
今年のは更により一層の!?・・少々強烈な・・印象を深く刻みこんでくれるものとなりました。

ちなみに、今年お手伝いする基本スタンスは「呑み友達と呑めるから」に尽きます。(不謹慎!)
でもそれで十分。それ以上の難しい目的や動機めいたものは何も無いから。
地域とか社会とかって、実はたかだかそういう「付き合い」から発芽するもの?なんて勝手に信じてもいます。
(そもそもその呑み友達というのも一昨年のこれが縁になったものだしね)

以下ダラダラ書くけれど何等オチがない・・・はずだけれど悪しからず。

二年ぶりにやってみて
私個人が感じたことは前回とそお変りません。(昨年アップした「あなたの町でも」の通り)
「わたしもあなたたちも、私たちん一人ひとりがこの町です。
自分を考えることはこの町を思うことに繋がるし、この町を考えれば結果として自分自身のことにも繋がってくる。」
何を血迷ったのか(?)、おこがましくもそんな挨拶をしたのでした。
様々考えることはあったけれど、辿りつく実感はやはり今回も同様のものでした。

遠回りだけど
市民討議会というものをいきなり置いたところから。

自治
色んな解釈や定義があるんだと思うけど、私はよくわからないので「そりゃマインドだね」ってことで理解してます。
(乱暴過ぎか)
自律?出来るだけ他に依らない(と努力することが大事だろ、と思いつつ)
「自分は自分でこの地にどう暮らすのか」
みたいなことをぼんやりと思う、そういうマインドかな、と思ってます。

地方自治とか市民参加とか
どういう表現でもいいけど、そういうことが大事だねってことは私如き偏屈な奴でさえ疑いがありません。
ただ。ただ「自治」は自治なので、他者に「お前、”自治”れ」って言われてやっちゃうと
それって自治としてどうなんだ?となります。
だから、「自治が求められてる」とか言った時の
「「自治が求められてる」と言われている」とか
「「「自治が求められてる」と言われている」とされている」とかの
何だか際限のない(まるでマトリョーシカ的な?)伝言ゲームでとらえちゃうと
「どうやら俺は自治させられるらしい・・・」となって何だか意味不明に陥るかも。

だから
自治って「おれが自治なんだよ」って言わないとピンとこない不思議な難しいものなんだと思うわけです。
(聞く人が聞くと「何さまだ」ってとられかねない変な言い方だけどね)
別に独善的にとか、横暴にとかいうことじゃなく、そういう一人一人の「俺の自治」の表明が
相互に伝わって広がって、それで抽象的な自治のイメージになって
「だからこの町で俺たちは自治ろう!」になれば何となくいいんじゃないかね。

そういう土壌
を作ることが大事なんだけど、その「作る」も誰かがあんまり小細工しちゃうのもまたね。
なので、「どの、誰の自治が正しい」ということは決めない、つまり「自治の定義」は個々のものでいいので
「お前んとこの自治はどんなだい?」「おたくの自治の最近の調子は如何?」くらいの
とにかく話したり相手のを聞いたりとか、そういう場面が自然に風景に馴染めば
他者との自治の違いを殊更問題にせず(0にはできなくても)、
けれど「自治は大事だ、なきゃいけないね」となり土壌となる・・・かも知れない。

なので
住民は自分等の住まう地域の「自治に関わりたい」と自らのぞみ、
そして行政も「どうぞ住民の皆さん自ら自治ってくださいよ(それについて必要な金や機能を移譲してもいいから)」
という気運?情勢?合意?が先ず何よりも先にあることが大事かなと。
けして行政は「どんな自治をしなさい」とは言わない(言えないよね?それを言ったら自治じゃなくなるってわかってるから)
でも、どういう自治かはともかく、結果として行政負担の軽くなる方向になら大凡歓迎はするでしょうと。
だから、どんな形の「自治のための市民参加の手法や形態」であれ、
何にせよ双方・・・とは便宜上の表現で本当は行政vs市民のようなけして二項対立的なことじゃない、と思うけど・・・
の側に「自治はなきゃ、なきゃダメさ」みたいな思いが、どちらかだけのおしつけじゃなく
とにかくあるといいのではないか・・・。
と言ってる私はけっこうどっちでもいいと思ってる人です。

そうすると・・・
何某かの働きかけやきっかけも何か(無いよりは)あった方がいいか、とは思う。
パブリックコメントやら何とかミーティングやらいろいろあるみたいだけど(私はどれも関わったことないっす)、
そういう中でも市民討議会はなかなかに面白く興味深いのでは・・・・と思う。
その意味では、卵と鶏でいくと、やっぱり行政からかな、と思うのです。
行政は「何としても市民自らがまとめた意見に則って諸々の施策をまとめるのだ」みたいなね
よくあるオブザーバ的なことを期待して(一応市民も入れてアリバイ作りましたから)、とかじゃなく
何か具体的なことを望んでみりゃいいとは思うけど・・・
でもそれすら例えばよく整った平和で安穏とした町ではなかなかないんだね。きっと。
そこでそれを無理に課題化して問うたりすると、結局当りさわりない(さほど結論を問われない)、
具体的ではないことを望まざるを得ず、という・・・・
で、そうなると既にそれは「望んでない」ってことになるわけだ。

今回は
そんな「望まれてない」状況の中で行われたです。
もちろん「要らない」とも言われてはないだろうけど、是非やろう!とも言われない。
でも一部の人達が「やる」と言ってやったわけです。
とある・・・とある「課題を解決しよう」と。

寝た子を起こす手の込んだ遊び
詳細は割愛します。
ただ今回参加なさった方の数名から次のようなことを言われたことがとても印象に残ってます。
「寝た子を起こしただけなの!?」
「まるで手の込んだ大袈裟な遊びですね」
とかとか。
これを言ってる背景がわからないと何だかさっぱりわからないと思うけどまぁ想像して下さい。

期待
させたんでしょうね、参加した人達に。、たぶんちょっと過大に。
でも「やる」と思ってやった人達はやったのです。
良いとか悪いとかそんな次元を超えたところで「必要」と感じた人はやったのです。
ただ、その期待は二項対立的なものを喚起させたのかも知れません。
「そうだよ、私たちだって色々できるはずだよ」素晴らしいね。
でもその先には
「だから行政に何をねじ込めるんだ?この集まりは何を付きつけるために自分達を集めたのだ?」
と思った人も何人か?はいたと思います。と言うか居ました。
私個人はむしろそう思ってしまう人なので、全然自然なことなのですが。

私は上述した
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「お前んとこの自治はどんなだい?」「おたくの自治の最近の調子は如何?」くらいの
とにかく話したり会話したり、そういう場面が自然に風景にあれば
他者との自治の違いを殊更問題にせず(0にはできなくても)、
けれど「自治は大事だ、なきゃいけないね」となり土壌となる・・・かも知れない。
=======================================================================
のようなことに期待していて(と同時に親愛なる呑み友達とのお付き合いもあり)
討議会みたいなものが(本当に有償であるべきかどうか諸々の疑問はあるけど)
続いたらいいねー、と思ってます。思っては居るけど「自分は音頭はとらない」です。
音頭をとって何かをすると、それは私の自治マインドに相反しちゃうから。
(これが所謂商売であるならマインドはまったく逆に作用しますけど、って当り前か)
と、そんなこんなでとにかく手伝ったわけだけど、でも何だかその言葉を聞いて以降、
様々な違和感達を自分の中でグツグツ煮込み始めることになった・・・。

まるで押し売り!?
「これは良いものだから使ってみて下さい」
「わかりました、使ってみましょう」
そして3年かそこら使ってみた。
「ううん・・・ある意味での「良さ」はわかったけど、費用負担するに値するほどの効果は何だか今一つですね」
と返品される。返品された側も別に逆恨みしてってことでもないだろうけど
「そんなことはない、これは良いものなのだから!」と。
そしてその「良さ」に恰も正統性をつけるが如く、その「良いもの」にさほど興味のない様々な人を巻き込みつつ・・・・

前回
も感じましたが、討議会自体はやはりプロセスでしかないから(これそのものは目的には成り得ない)と思ってます。
そんなプロセスが定着し長く続くようにと願い、それも純粋に願って始めるわけだけど、
「求められてない」と「続かない」ことも一方の事実だから、
そうすると「良いもの」だから「結果も出る(出せる)」と発想してしまう。
なるほど、考えはとてもよくわかるし大筋で願うことも一緒ではあるけど
でも何だか「様々な違和感は自分の中でグツグツ煮込まれ」過ぎて焦げちゃったりもした。

目的は説明
されるべきかと思います。なぜそれをやるのか。何を願ってそれをやるのか。
そこに腐心してきちんと説明しとかないと悪戯に期待だけを持たせる場になりかねないな、と。
(もちろんその期待は大事な何かのきっかけにも成り得るけれど)
プロセスとしての定着を願っていることをきちんと言って、その一環としての今回討議会なのだ。とかね。
気分としては、自治にも繋がり得る可能性を秘めた、何となく「良さそうな場所」には呼ばれたんだけど
結局この場所は
・主催する、やってる側にとってどんなものか
・来てくれた方達にとってここではどんなことを感じてもらいたいところなのか
くらいの思いは丁寧にわかってもらわないといけないなー、と痛感。
と私は思ったけど、そう思うことすら「一人一人の自治マインド」だからして、まぁどうでもいいっす。
でもでも。「これ(討議会)のオチは?目的は?」と聞く人は必ずいるし、いなきゃ不自然だし、
それはある意味でとても素朴で自然な疑問、ですよね。

のような
愚にもつかないことばかりだけど、例えばこんな(ある意味で何の合理性もましてや効果も見込めない)ことを
誰かと語れる環境そのものが、やっぱり
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地域とか社会とかって、実はたかだかそういう「付き合い」から発芽するもの?
=======================================================================
なんて勝手に信じてもいます。

あー・・・やっぱりオチはなかったね・・・・。
ははは

 

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納豆だったと仮定して


今回は[とんかじょん](北原白秋)と、天草(熊本)はみなとしょうゆの[天翔]という
それはそれは美味しい醤油について触れようか・・・なんて思ったのだが止めときますわ。

つい先だって乗った飛行機での不快な出来事について。
後ろの座席に子連れが二組。あ~あ・・・・嫌な予感は的中するんだよね。
着席と同時にギャーギャーやってたけど、まぁそれはともかく。
案の定、背もたれをどかどかとやられて鬱陶しいったらありゃしない。
「ああ・・・いったい俺が何をした?」って。

と言うような、やり切れない悲しみと憤りが込み上げてきたところでCAがやって来た。
「お客様、この数列前の座席が一列空いております・・・
後ろのお子様がとても”元気がよ過ぎる”ようですのでもし宜しければお移りになりませんか?」
だって。
もちろん「移る」と即答。すぐに移動しやしたよ。ははは
っていうかさ、何で俺が移らされるんだ?って。

なんて思ってたら、女性漫画家の最近の話題を思い出してしまった。
(詳細はよく知らないけど着陸態勢に入ってから席を立ったんだっけ?)
いやいや、俺は航空会社にクレームなんかつけないぞ。
あ、ちなみに今日のはその話題(騒動とすら思ってないので話題ね)と同じ航空会社だったりします。

あたしゃクレームなんてめんどくさいことはしませんよ。
ただね、幼児が背もたれをどんどん蹴ったり押したりするくらいの行動は、
抱きかかえてる大人は当然に抑制可能だし、当然に抑えなきゃダメだろってことを、
その後ろの二組に対して言いたかっただけなのよ。
ぎゃーぎゃー喚くのもそりゃ度が過ぎれば「うるさい!」と言う人もいるでしょう。
でもね。だからって子供の口を塞げ、とは言えないよね。
でも、抱きかかえてる子供の手足のバタツキを前の座席の背中部分へ衝撃を与えないよう
工夫するくらいは全然できちゃうだろ?ってことですよ。

大人のルールを子供に押しつけて・・・・だなんて、これまためんどくさいことはまったく思わない。
そんなのあたりまえじゃないの。ね?
(だいたいそんな約束事、子供にわかるわけねーだろって。
もしかしてそういうことを本気で思ってしまってる大人がけっこういたりするのかね)

そもそもルールって、大人の観念で成り立ってんだから当然に大人が問われることでしょ。
(小さい子供にそんな理屈が通用するか?通用しないからこその教育とか躾なんじゃないのかね)

周囲の大人は諦めてそういうことにも大らかに対応すべき・・・はいはい。
そうだね。そうありたいね。
でもね、周囲が無条件に「いやいや、いいっすよ」なんて大らかな対応ばかりできるんだろうか。
その幼児の親や保護者自らが迷惑に先んじて
「背もたれ押して迷惑かけちゃってすみません」
くらいのマナーや気遣いができることが先ずありきの話なんだと思うけど・・・。

親である大人がそれすらもできないという次元の話に、
なんでそんな悲しい大人(親)をさしおいて子供だけを相手にして大らかになるんだろ。
あーこりゃこりゃ、と。

まぁね、腹立て続けるのも呆れ続けるのも、これはこれで本当にきっつことではあるのだが。トホホ

話がらっと変わって、人件費の削減は付加価値率を下げる、という話。
藻谷さんという日本政策投資銀行かどこかの偉い方が(読みかじりのうる覚えですが)
企業の付加価値額のことをどこかで書かれていて、
それは企業の利益以外に事業で使われたコストの一部も含まれてのものなのだ、と。
その一部は「地元」など地域に落ちる人件費等で付加価値額を増加させるのだ、と。
利益以外、ということの見方としてきわめてすっきりしましたね。
こういったコストは、地域経済全体で見れば大きなプラスでしょ?
地域経済が元気になれば結局巡り巡ってそいうことやってる企業の業績も伸びるんじゃない、と。
江戸時代の商売人が直感的にこのことをわかっていて「金は天下の回り物」と言ってたことも引き合いにされてます。
(自分が使ったお金は誰かの儲けに回って、その儲けがお金としてまた誰かに使われることで、
自分の儲けに戻ってくる。これこそが「経済感覚」なのだ、と)

ふむふむ、溜飲下げまくり。
こういう「巡り巡って」みたいなものを、個々がせき止め始めたらそりゃどうしたって今みたいなことになる。

そしてもうじき衆院選挙がやってきて、あーあ・・・また投票する先がないなー、と困ってます。

仮に日本を納豆だとしよう。(え・・・?)
納豆ってネバネバが命じゃない。ね?(俺はあの匂いも粘り気も大好きなんだけど)
ところで今時って、このネバネバ(巡り巡って的要素)を悉く無くす方向に向かっちゃってるんだと思うのです。
そうすっとさ、美味しくはないし、そもそも「なんだ、ただの大豆かい」ってことになる。

だから、あれだけ国のことを思う偉い方達(なんだよね?きっと)なのだからして
・この国はこれからも納豆で在り続けるべき
と叫んでるのか
・いやいや、もうこの国は納豆じゃないのでいつまでも納豆を懐かしがらずに大豆としてこれからの未来に向かうのだ
と叫びたいのか、何だかわからないのです。

もし前者なら、「金は天下の回り物」である前提を当然のこととして話をしてほしいし、
そうじゃないなら
「もうバラバラのマメでいい、粘んなくていいよ。だから個々のマメは個々のことだけをひたすら考えてくれ!」
と。更には
「その代り国はこれ以上心ある納税者の税金を無駄にはしないから、心ない方はそのつもりでね!」
くらいもはっきり言ってほしいよなー。

などと、くだらないことばかりうだうだと。
・子供なんだから仕方ないだろ、と居直る大人(=お詫びや気遣い一つできない大人)
であるところの大人を作ったのは、それ以前の世代の大人なのは自明。
よってたかって粘り気を削ぎ落としたんだけど、自分の子供たちはそんな粘らない社会で
「個々のマメは個々のことだけをひたすら考えていくぜ!」
となってしまって何やら想定外事象ってことなのか。
仮にそうだとして「いまの大人」はだからどうするんだっけ?個々のマメは個々のことだけでいくんだっけ?

って感じでさっぱり何だかわからんが・・・
・人件費の削減が付加価値率を下げる(=点だけで見た狭い利益は瞬間的に高まったとしても)
ことと
・日本は納豆だった(でも味噌でも何でもいい)けど、もうやめちゃうんだっけ?
みたいなことが私の中ではうにょうにょうにょっと繋がってしまってだらだら書いてしまいました。

まるで脈絡なく・・・
旧制室蘭中学校(今の栄高校)の校歌を作詞したのも「とんかじょん」こと北原白秋さんなのでした。

納豆だったと仮定して はコメントを受け付けていません
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