あなたの町でも・・・りたーんず
一昨年お手伝いした市民討議会。
どこかで書いたけど今年も微力ながらもお手伝い。(ほとんど役にたってないけどね)
一昨年のそれはとても印象深いイベント(?)だったし、色々と考えさせてくれる私にとってのいい経験でしたが
今年のは更により一層の!?・・少々強烈な・・印象を深く刻みこんでくれるものとなりました。
ちなみに、今年お手伝いする基本スタンスは「呑み友達と呑めるから」に尽きます。(不謹慎!)
でもそれで十分。それ以上の難しい目的や動機めいたものは何も無いから。
地域とか社会とかって、実はたかだかそういう「付き合い」から発芽するもの?なんて勝手に信じてもいます。
(そもそもその呑み友達というのも一昨年のこれが縁になったものだしね)
以下ダラダラ書くけれど何等オチがない・・・はずだけれど悪しからず。
二年ぶりにやってみて
私個人が感じたことは前回とそお変りません。(昨年アップした「あなたの町でも」の通り)
「わたしもあなたたちも、私たちん一人ひとりがこの町です。
自分を考えることはこの町を思うことに繋がるし、この町を考えれば結果として自分自身のことにも繋がってくる。」
何を血迷ったのか(?)、おこがましくもそんな挨拶をしたのでした。
様々考えることはあったけれど、辿りつく実感はやはり今回も同様のものでした。
遠回りだけど
市民討議会というものをいきなり置いたところから。
自治
色んな解釈や定義があるんだと思うけど、私はよくわからないので「そりゃマインドだね」ってことで理解してます。
(乱暴過ぎか)
自律?出来るだけ他に依らない(と努力することが大事だろ、と思いつつ)
「自分は自分でこの地にどう暮らすのか」
みたいなことをぼんやりと思う、そういうマインドかな、と思ってます。
地方自治とか市民参加とか
どういう表現でもいいけど、そういうことが大事だねってことは私如き偏屈な奴でさえ疑いがありません。
ただ。ただ「自治」は自治なので、他者に「お前、”自治”れ」って言われてやっちゃうと
それって自治としてどうなんだ?となります。
だから、「自治が求められてる」とか言った時の
「「自治が求められてる」と言われている」とか
「「「自治が求められてる」と言われている」とされている」とかの
何だか際限のない(まるでマトリョーシカ的な?)伝言ゲームでとらえちゃうと
「どうやら俺は自治させられるらしい・・・」となって何だか意味不明に陥るかも。
だから
自治って「おれが自治なんだよ」って言わないとピンとこない不思議な難しいものなんだと思うわけです。
(聞く人が聞くと「何さまだ」ってとられかねない変な言い方だけどね)
別に独善的にとか、横暴にとかいうことじゃなく、そういう一人一人の「俺の自治」の表明が
相互に伝わって広がって、それで抽象的な自治のイメージになって
「だからこの町で俺たちは自治ろう!」になれば何となくいいんじゃないかね。
そういう土壌
を作ることが大事なんだけど、その「作る」も誰かがあんまり小細工しちゃうのもまたね。
なので、「どの、誰の自治が正しい」ということは決めない、つまり「自治の定義」は個々のものでいいので
「お前んとこの自治はどんなだい?」「おたくの自治の最近の調子は如何?」くらいの
とにかく話したり相手のを聞いたりとか、そういう場面が自然に風景に馴染めば
他者との自治の違いを殊更問題にせず(0にはできなくても)、
けれど「自治は大事だ、なきゃいけないね」となり土壌となる・・・かも知れない。
なので
住民は自分等の住まう地域の「自治に関わりたい」と自らのぞみ、
そして行政も「どうぞ住民の皆さん自ら自治ってくださいよ(それについて必要な金や機能を移譲してもいいから)」
という気運?情勢?合意?が先ず何よりも先にあることが大事かなと。
けして行政は「どんな自治をしなさい」とは言わない(言えないよね?それを言ったら自治じゃなくなるってわかってるから)
でも、どういう自治かはともかく、結果として行政負担の軽くなる方向になら大凡歓迎はするでしょうと。
だから、どんな形の「自治のための市民参加の手法や形態」であれ、
何にせよ双方・・・とは便宜上の表現で本当は行政vs市民のようなけして二項対立的なことじゃない、と思うけど・・・
の側に「自治はなきゃ、なきゃダメさ」みたいな思いが、どちらかだけのおしつけじゃなく
とにかくあるといいのではないか・・・。
と言ってる私はけっこうどっちでもいいと思ってる人です。
そうすると・・・
何某かの働きかけやきっかけも何か(無いよりは)あった方がいいか、とは思う。
パブリックコメントやら何とかミーティングやらいろいろあるみたいだけど(私はどれも関わったことないっす)、
そういう中でも市民討議会はなかなかに面白く興味深いのでは・・・・と思う。
その意味では、卵と鶏でいくと、やっぱり行政からかな、と思うのです。
行政は「何としても市民自らがまとめた意見に則って諸々の施策をまとめるのだ」みたいなね
よくあるオブザーバ的なことを期待して(一応市民も入れてアリバイ作りましたから)、とかじゃなく
何か具体的なことを望んでみりゃいいとは思うけど・・・
でもそれすら例えばよく整った平和で安穏とした町ではなかなかないんだね。きっと。
そこでそれを無理に課題化して問うたりすると、結局当りさわりない(さほど結論を問われない)、
具体的ではないことを望まざるを得ず、という・・・・
で、そうなると既にそれは「望んでない」ってことになるわけだ。
今回は
そんな「望まれてない」状況の中で行われたです。
もちろん「要らない」とも言われてはないだろうけど、是非やろう!とも言われない。
でも一部の人達が「やる」と言ってやったわけです。
とある・・・とある「課題を解決しよう」と。
寝た子を起こす手の込んだ遊び
詳細は割愛します。
ただ今回参加なさった方の数名から次のようなことを言われたことがとても印象に残ってます。
「寝た子を起こしただけなの!?」
「まるで手の込んだ大袈裟な遊びですね」
とかとか。
これを言ってる背景がわからないと何だかさっぱりわからないと思うけどまぁ想像して下さい。
期待
させたんでしょうね、参加した人達に。、たぶんちょっと過大に。
でも「やる」と思ってやった人達はやったのです。
良いとか悪いとかそんな次元を超えたところで「必要」と感じた人はやったのです。
ただ、その期待は二項対立的なものを喚起させたのかも知れません。
「そうだよ、私たちだって色々できるはずだよ」素晴らしいね。
でもその先には
「だから行政に何をねじ込めるんだ?この集まりは何を付きつけるために自分達を集めたのだ?」
と思った人も何人か?はいたと思います。と言うか居ました。
私個人はむしろそう思ってしまう人なので、全然自然なことなのですが。
私は上述した
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「お前んとこの自治はどんなだい?」「おたくの自治の最近の調子は如何?」くらいの
とにかく話したり会話したり、そういう場面が自然に風景にあれば
他者との自治の違いを殊更問題にせず(0にはできなくても)、
けれど「自治は大事だ、なきゃいけないね」となり土壌となる・・・かも知れない。
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のようなことに期待していて(と同時に親愛なる呑み友達とのお付き合いもあり)
討議会みたいなものが(本当に有償であるべきかどうか諸々の疑問はあるけど)
続いたらいいねー、と思ってます。思っては居るけど「自分は音頭はとらない」です。
音頭をとって何かをすると、それは私の自治マインドに相反しちゃうから。
(これが所謂商売であるならマインドはまったく逆に作用しますけど、って当り前か)
と、そんなこんなでとにかく手伝ったわけだけど、でも何だかその言葉を聞いて以降、
様々な違和感達を自分の中でグツグツ煮込み始めることになった・・・。
まるで押し売り!?
「これは良いものだから使ってみて下さい」
「わかりました、使ってみましょう」
そして3年かそこら使ってみた。
「ううん・・・ある意味での「良さ」はわかったけど、費用負担するに値するほどの効果は何だか今一つですね」
と返品される。返品された側も別に逆恨みしてってことでもないだろうけど
「そんなことはない、これは良いものなのだから!」と。
そしてその「良さ」に恰も正統性をつけるが如く、その「良いもの」にさほど興味のない様々な人を巻き込みつつ・・・・
前回
も感じましたが、討議会自体はやはりプロセスでしかないから(これそのものは目的には成り得ない)と思ってます。
そんなプロセスが定着し長く続くようにと願い、それも純粋に願って始めるわけだけど、
「求められてない」と「続かない」ことも一方の事実だから、
そうすると「良いもの」だから「結果も出る(出せる)」と発想してしまう。
なるほど、考えはとてもよくわかるし大筋で願うことも一緒ではあるけど
でも何だか「様々な違和感は自分の中でグツグツ煮込まれ」過ぎて焦げちゃったりもした。
目的は説明
されるべきかと思います。なぜそれをやるのか。何を願ってそれをやるのか。
そこに腐心してきちんと説明しとかないと悪戯に期待だけを持たせる場になりかねないな、と。
(もちろんその期待は大事な何かのきっかけにも成り得るけれど)
プロセスとしての定着を願っていることをきちんと言って、その一環としての今回討議会なのだ。とかね。
気分としては、自治にも繋がり得る可能性を秘めた、何となく「良さそうな場所」には呼ばれたんだけど
結局この場所は
・主催する、やってる側にとってどんなものか
・来てくれた方達にとってここではどんなことを感じてもらいたいところなのか
くらいの思いは丁寧にわかってもらわないといけないなー、と痛感。
と私は思ったけど、そう思うことすら「一人一人の自治マインド」だからして、まぁどうでもいいっす。
でもでも。「これ(討議会)のオチは?目的は?」と聞く人は必ずいるし、いなきゃ不自然だし、
それはある意味でとても素朴で自然な疑問、ですよね。
のような
愚にもつかないことばかりだけど、例えばこんな(ある意味で何の合理性もましてや効果も見込めない)ことを
誰かと語れる環境そのものが、やっぱり
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地域とか社会とかって、実はたかだかそういう「付き合い」から発芽するもの?
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なんて勝手に信じてもいます。
あー・・・やっぱりオチはなかったね・・・・。
ははは