第四話「女王、現る」
セミナーでの講演を終えた山登下子は自社へ戻るマセラッティの中で深く溜息をつく。
それは疲労でもある一方で充足の溜息でもある。
「ふぅ~~~」
今日も2000名近くの聴衆の心を鷲掴みにした、そんな充足感に浸っているのだ。
自らが起業しここまで成長させたパンドラプラス社、
今ではIT業界新興の筆頭と自他ともに認める企業である。
社名のパンドラプラスとはパンドラの箱とラプラスの悪魔をかけあわせたものだ。
山登下子、やまのぼりくだりこ。
やまのぼりはともかく、くだりこって….。
どうなんだろう、こんな名前って。
幼少の頃から幾度となく思ってきた、この名前の奇妙さ。
ただの一瞬だって親のこの思いつき以外の何物でもない
ふざけた名前を呪わなかった日はない。
42歳になろうとしている今でさえ、その怨念に似た気持ちに変わりはない。
下子は、所謂大手のコンサルティングファームやITベンダーなどへの勤務経験はない。
ましてやMBAなどがあるわけでもなく、唯一もっているのは日商簿記の3級だけだ。
だって、大学だって高校だって出てないもーん!
なのである。
とにかく、ここまで来た。
再び今日の講演での聴衆たちの恍惚とした表情を思い浮かべてしまう。
「ビジネスを勝ち抜くために唯一必要なもの・・・・それは愛です」
「愛なきビジネスなど不毛以外の何物でもありません」
「我がパンドラプラス社の誇る愛帝BOXは、皆さんの企業活動に必ずや愛をもたらすでしょう」
「ストラテクジックにしてタクティクス、エキセントリックにしてシュールでクールでエコロジー」
「ERPもSCMもどんとこい、ウェブも愛ならモバイルも愛、SISでTSS、LTEは素敵だな、あんたの心はクラウドふーわふわ」
「皆さんのIT投資をひたすら愛帝BOXに注ぎましょう、大いなるリターンをもたらします」
「よろしいですか、皆さんが今後構築するビジネスモデルには愛、愛が必要なのですよ!」
「ご興味のある方、どうかお帰りにでも私の近著『愛のままに我儘に、信じなくても愛あらば』を手にとってみて下さい」
「皆さんに幸多からんことを・・・」
(うぉぉぉぉー、やんややんや、わいわいがやがや×2000名くらいが恍惚)
下子はふと運転手の渡辺に声をかける。
「北海道の、北海道のあそこ何て言ったっけ?」
渡辺は正面を見つめたまま返事すらしない。
数秒後「室蘭、ムロラン、だったでしょうか」
「そお、それ、そこ。 ムロランだったわね。」
「はい、先だって下子様が
『釣りができて』『温泉とゴルフ場が近くにあって』『涼しいけどさほど雪の積もらない』
『晴れ間より霧がかっている』『工業用地のような場所』
で開発拠点を構える、とおっしゃって物色していた際に候補に挙がった、
あの北海道の町はムロランでした」
下子はスモークガラス越しに外を見やる。
視界には明治大学があった。
「今、愛帝BOXのフレーム設計の責任者の彼、あいつ何て言ったっけ?」
「・・・・」
「毎日何十本も煙草ばかり吸ってるちょっとうじうじっとした、いまいちセンスのなさそうなあの男、わからない?」
「・・・・室井、確かむろい・・・とか言ったと思いますが」
「むろい・・・そうね、そんな名前だったわ」
パンドラプラス社の喫煙所には監視用にWebカメラが取り付けられており、
下子はそのカメラ映像を移動中の車の中でもよく覘いていた。
喫煙率の高い社員を徹底して観察、それが彼女の趣味でもあり人事評価の一環でもあった。
「その室井とかって男をそのムロランの開発拠点責任者にするわ」
異動が決まれば5年は戻れない、それがパンドラプラス社の暗黙の了解だ。
「渡辺、明日にでも室井に辞令をだしておいて」
「承知しました」
運転手の渡辺が即座に答えた。
COOでありCFOでもある、下子の参謀にして運転手である渡辺の口元は
心なしか歪んで笑っているかのようにすら見えた。