眼鏡喪失の悲しみ・・・サンセベリアの花の不思議
いやー。眼鏡落としちゃいました。とほほ
昼食に出かけた際に上着に入れてたものが何かの拍子で落ちたのでしょう。
出先から帰る際も、お昼に歩いた道をもう一度通って、昼食をとったうどん屋にも立ち寄って・・・
と、一応捜索らしきことはしたのだが・・・あ~あ
落としたショックも大きかったけど、「やばい・・・仕事に支障が出るぜ」という焦燥の方もそれ以上にでかく
気付いたらその眼鏡を買ったメガネ屋さんに電話してましたもの。
幸いにして氏名を伝えたらあったあった。
ちょうど作ったのが2年前の今ごろだったようですがきちんとカルテも残っていて、
同様のレンズの在庫も確認してもらえて仕事帰りにそのメガネ屋へ直行。
せっかくだから、と自宅用と仕事等の持ち出し用にと、二つ買ったのだー。これがまた。
ここ数年劇的に老眼が進んでしまって、日常ではどってことないけど
ディスプレイやプリントなんかで細かな字を読むのが本当に大変。
たまに忘れたりすると、相当きついことになってしまうのだー。これがまた。
ってわけで、自分の意識レベルとはかけ離れて、その重要性・必要性は大きく、
こんなにメガネを失うことが辛く悲しいことだとは・・・・あ~あっと。
どっかのテレビ局が”はんりゅう”ばっかでダメ、みたいなことをってツィートした人が何だか大変(?)になったそうで、
そのことを「テレビは無料なんだから厭なら見なけりゃいい」って言った人がいて、そしたらそれも大変(?)になったそうで、
それをまた広げるテレビ番組もあって・・・・
こうやって「大変になったそう」が循環するのである。
何が大変なのかまったくわからないし、そもそも「大変」は誰にとってのものか、もわかってない私だから
結局のところ何とも思わないのでした。
(「冬ソナ」と「ホテリヤー」しか見たことないけど普通に面白かったけどね)
でもね、「テレビは無料」ってところは妙に気にかかるっすよ。
これって「見る・見ないは選択のもんだい」ってことかね。
だとすると困るなー。そもそもテレビ(特に地上波です)って参入障壁が富士山級に高くて実質誰も入れないでしょ。
一方で公共性も言ってるし、総務省と周辺法令ががっちりとその存在も別格化してるわけで。
そういうものって選択の問題じゃなく(テレビ自体持ってない、とかはまた別なんでしょうけど)
一方的に「無料で流して」、そのうえで「厭なら見るな」ってどうなんでしょうか・・・・
むしろ、これがWOWWOWとかスカパーみたいな有料ものなら見る側としての選択の話は全然わかるんだけど
新聞だって雑誌だってそう。「読む・読まない」以前に「買う・買わない」は普通。
でも(地上波の)テレビってそういう次元で「厭なら見るな」って言えちゃうんだねー。
そう。ごもっとも。厭なら見ない。当たり前。
でも、やっぱりそういう”性質”のものだから裏返して「どうだったらもっと面白いか」は言いたい人は言っていいわけだよね。
(「大変になった」彼が”はんりゅう”を減らせばどっかのテレビ局がもっと面白くなる、と思ったかどうかは知らん)
とか何とか。
色々不思議な感じがして「なんなんすかねー」って思った次第。
誰かがどうこうした(したらしい)⇒一部の人が何がしかのメディア(コミュニティ)で盛り上がる
⇒どういうわけだかこれをまたテレビとかが取り上げて
⇒何にも関心のない人に『一方的に「無料で流して」』しまう
誰かどこかで意図的にそうするのか、そうせざるを得ないのか、
とにかく「騒がれてること」を皆皆の代表意見かのごとくすり替えて
揚句の果「世論」とか「民意」とか言い始めて、
あれれ・・・・俺の気持ちとか意見ってどこいった?的な奇妙な日常が深刻化してますぜ。あ~あっとっと。っと。
際限なし。だ。
わーい!サンセベリアが花を咲かせたよー。(こういう目の前に起きてる現実が大好き)
一説によると”狭苦しくなると”らしいけど真偽は存じません。
そうか。そのうちあちらこちらで花が咲き乱れるのかも知れんなー。あちらこちらが”狭苦しくて”。