「むふふ。やっぱりラーメン屋をやるなら醤油に拘りたいな♪」
室井三郎は喫煙所でニヤけながら、次の煙草を吸おうとおもったが、もう無い。
兄貴の一郎からラーメン屋の引継ぎ話を聞いてから、何本吸ったのだろうか・・・
三郎自身もヘビースモーカーでニコチン中毒であることは自覚していて、
50歳くらいで肺ガンでポックリ逝ければ本望だと思っている。
「ちっ・・・煙草なくなったか・・・仕事に戻るか・・・」
職場に戻ってくるとなにやらザワザワと騒がしい。システムトラブルだろうか?
「戻りました!何かあったんすか?」
三郎が誰となく職場のメンバーに問いかけた瞬間、ビデオを一時停止したように
全員が三郎のほうを向いた状態で固まっていた。
何だ?三郎は何が起きているのかさっぱりわからない。
「ちょちょちょっと、なんなんだよ?この空気。気持ち悪いんだけど・・・」
と、自席について隣に座っている同僚の山本文夫に小声で聞いた。
「いいから、まずはお前のPC見てみろよ」と山本は三郎のモニタを指さす。
[新着メッセージがあります]
三郎は恐る恐るボタンをクリックしてメールをチェックした。
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室井三郎 殿
株式会社 パンドラプラス
代表取締役社長
山登下子
辞 令
平成22年8月1日をもって、新規開発プロジェクトのチーフリーダー
として室蘭への転勤を命ずる。
以 上
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「なんだよこれ!!」
静かな職場に三郎の大きな声が響いた。「おい山本!どういうことなんだよ!?」
山本に聞いたところで何にもならないことはわかっているのに、三郎は山本を睨んだ。
「俺に聞くなよ。室蘭に行けってことなんだろ」 山本は冷静に答える。
三郎の動揺は止まらない。気持ちを落ち着けるために喫煙所へ行こうと席を立つと
職場のメンバー全員、まだ三郎のことを見ている。
三郎にはみんなの目線が冷ややかに突き刺さるようで、凄く嫌だった。
「まぁまぁ落ち着けよ。チーフリーダーってことは昇進ってことだろ。良かったじゃねぇか」
山本の気休めの言葉は三郎の耳には届かない。
「意味わかんねーよ!」
職場では物静かで明るくて優しいイメージの三郎が感情的に怒りの声を上げて
さっき戻ったばかりの職場から立ち去り喫煙所へ駆け込んだ。
「くそっ!!」
シャツのポケットの煙草を取り出そうとしたが、さっき全部吸い終わったばかりで煙草がない。
灰皿にたまったシケモクを4・5本取り出し、フィルターまで火がつきそうなくらい
思いっきり煙を吸い込んで、冷静を取り戻そうとしていた。
せっかくラーメン屋への道が見え始めたところで、まさかの室蘭転勤。
動揺するなというのも無理な話だ。
しかし、室蘭という町は三郎にとって思い入れの深い町でもある。
三郎は室蘭で生まれ、室蘭の小学校、中学校、高校、大学と青春の全てを過ごした町だった。
昔は鉄の町として繁栄していたが、不景気をあおり衰退・過疎化の一途をたどり、閑散としている。
妻の幸子は三郎の幼馴染みで、室蘭生まれの室蘭育ち。
大学在学中に学生結婚をして、このまま室蘭に骨をうずめるつもりだったのだが、大学卒業を
しても、地元に就職先はなかった。 欲をださなければ地元の土建業者やコンビニのバイトでも
夫婦2人で食いつないでいくことは可能なのだが、探せど探せど自分の希望する職種と給料に
あった企業はみつからず、「室蘭に未来はない!」と地元を離れることを決意。
就職を機に地元室蘭を捨てて、東京にやってきたのだ。
三郎としては「いまさら室蘭?」と思っているが、幸子はきっと喜ぶだろう。
三郎と幸子の親も還暦を過ぎて現役を引退し、毎日庭いじりをしながら
退屈な年金生活をしている。 盆と正月に帰省するたびに「あなたたち、もうそろそろ・・・」
と、暗に「孫の顔が見たい」と「帰ってこい」と言っている。
素直に辞令に従って室蘭に行けば、大歓迎されるし、子供を作って親を安心させることもできる。
自分以外の境遇を考えれば、これ以上ありがたい話は無い。
ただ・・・自分自身の夢であるラーメン屋を諦めなければならない。
自分の夢に突き進むか・・・
家族のために夢を諦めるか・・・
吸えるシケモクも無くなり、喫煙所の隅でしゃがみこんで頭を抱えながら
三郎は人生の決断を迫られていた。
「ねぇ渡辺。彼、室蘭に行くとおもう?」
「さぁ今の状態ではすぐに辞表をだしそうな気がしますが・・・」
「そうかしら?渡辺もまだまだ見る目が無いわね。彼は行くわよ。室蘭へ」
「そうでしょうか・・・」
パンドラプラス社の社長室にある監視モニターを見ながら
山登と渡辺はカモミールティーを飲んでいた。